昭和五十年十月七日 御理解 第二十一節「信心せよ信心せよ、信心とは我が心が神に向かうのを信心と言うのぢゃ、神徳の中に居っても、氏子にシンなければおかげはなし、カンテラに油一杯あってもシンがなければ火が点らず、火が点らねば夜が闇なり、信心なければ世界が闇なり」
氏子に信なければ世界は闇なりと、此処に氏子に信なければと、仰られてあるのはあたりを明るくする程しのもの、言うならば信じられておると思う信と、自分だけが神様を信じておる、信じておると言うておっても辺りを明るくするようなもの、なら世界は闇なりと仰られる、辺りを明るくするようなものが、世の中に沢山出来てはじめて、世の中が明るくなる、だから此処でおかげはなしと仰られる。
と言うのはここでは御利益と言う事ではないと思います、言わば信心せよ信心とはわが心が神に向かうのだ、信心とこうおっしゃる神に向こう行く程しの精進です、言うなら神様の心に言うなら御心を御心として頂いて行こうと言う、信から生まれて来る信心です。おかげを頂いた、ああ神様ちゃやっぱりこざるばい、お願いをしたああ神様のおかげで一分一里間違いのない、そう言う意味でなら合楽の朝参りどもなさる方ならば、皆信じておられる事とおもいます。本当に参りゃ参るごとあるですばい、お取り次ぎ頂いての働きと言うものは本当に有難いと言う程度の信ではない、自分の心が神に向かう、信心とは我が心が神に向かうと言う、神様の心と同じような心に段々深まって行くと言うか、変わって行くと言う、そこから生まれてくる信です。
ですから神様から向かうと言うだけなら、神様と同一のことならそこから交流するものが、神様に信じられておると言う事です、どうでも我が心が神に向かうて行く精進をしなければいけません、でないと確信をもった表現なんかもできません、先日から医者にかけたら何と言うでしょうかね、もう兎に角、体、頭半身がどうかしびれてしまう、もう大変にやっぱし痛みうずきらしいですね、もうそれこそ朝ここに出て来るでも、もう泣く泣くですかもうそれは御飯もろくろく出来ませんし、まあ大変きつい演説らしいです、嫁が三日目ですか毎日お願いしとりましたけど、三日目に今日は愈々痛んでおり苦しんでおると言うのです、それで私が恵美子さん光昭に言って下さいとね。
本当に光昭は兄弟一番に言うならば、私が言うた事に対してハイハイと言う返事はバサラカよい、まあ言うならば素直だ、けれども親がこうあって欲しい、こうあって呉れと頼んで願っておる事の、聞こえんのだろうか親が子に頼んでおる事が、をぎょうじようとしない、親の心に添うとしない、いえばです何一つたのんでもこの人ばっかりは嫌な顔一つした事はありません。
もうしかも返事のよかことは兄弟一番でしょう、まあたとえて言うならばね恵美子さん、例えて言えば光昭のヘアースタイルだよと、もう形がツルツルあげなヘアースタイルが好かんことわかっといて、ほんなこと石川五衛門のごとしとろうがの、だから本当にこれは親先生が好きなさらんからスキッと散髪でもする気になって、ごらんおかげ頂くからと私が言いました、それとね私と神様が交流しておる、私と神様が言わば神様に信じられておると思うからそう言う事が言えるのです、寝ながら思ったでしょう、今度良くなったら必ず髪を短くしょう、親先生がそげんこげん長い髪が好きなさらんからと、その日からおかげで楽になりました。
私はあの信ずると言う事はそう言う事ではないかと思います、只おかげを頂きよるお願いしておかを頂きよるから、やっぱり神はござるばいと言うて神様を信ずる力が段々強くなって行くのではなくて、我が心が神に向かって行く修業ですね、だから神様の心を心として交流しておるならば、親先生の心を心としてと言う生き方になりますと、信の力は段々強くなります、私が神に向かって行くと言う精進を怠ったらそれはもうそれまでの事 けどやはり一生懸っての事、一生を言うなら生神を目指しての信心、それは一生かかっても出来はしまいけど、やはり我が心が神に向かって行くと言う事を、信心と心得それを楽しみ自分の心がそれこそ自分で自分の心が拝みたいような心、神様の心を心として、信心を進めて行くと言う事になりませんと、私は氏子に信なければおかげはなしと言う事はそう言う事だと思う。
これはなら程度を下げてそこんところを頂きますとですたい、それは我が心に神を頂くとですたい、やはり信心させて貰えば、五年十年と段々信心を続けておる人ならばです、神様はやっばり信じております、またの御教えにあります、神を信ずる氏子は多いですけれども、神に信じられる氏子が少ないと仰せられる、だから神を信ずる程度の信心でもです おかげを受けますけれども周囲が明るくなる、世界が闇なりと仰せられる、光を放つ程しの信心、信とは神に信じられる信である。
今日はそこのところは少し高度な時点で、聞いて頂いた訳ですね、神様に信じられる確かに心を神に向こうて行く事を精進さして貰おうと言う、私は事になったらです、必ずその信が生まれて来るはずです、自分の心が神様と同じような心になって行くのですから、おかげを頂かない筈はありません、そこから交流するもの、そこで自分の心の中に本当に神様の心と似ても似つかないような心、汚い心、穢い根性、そう言うような心に愈々取り組まなければならないと、言う事になるのです。
信心とは私はそれに信心とは神に向かって行く心の、だから稽古なのです、信心とはシンなければ火は点らず、信心とは信心の信です。カンテラに油があっても、私どもがそれこそ御神徳、御恩恵の中にこうして守られておる事がわかっても、御神徳の中にひたっておってもです、神様の働きを表して行けないと、言うような事ではなりません、どうでも我が心が神に向かうと言う心、そこで神の心を心としてと言う事になる、取り次ぎを願う先生がその神に向こうて行くと言う事を、一生懸命精進しておられる、言うならばですその先生の心を心として、信心の稽古を怠らない。
しみると例えばそれこそヘアースタイル一つでも服装一つでも、親先生からこう言う事をするのは好かんと、確かにおかげ頂くと頂かんかはっきりする様です。
もう椛目時代でしたけれども、それこそ二十回位見合いをしたけれども、片っぱしからくずれると言う人がありました、そこで今度は影見をして、こっちも気にいっとる、それでお見合いをさせて貰うから、どうぞお願いして参りました。それで私が申しました、ほんな髪のここんところばこげん長くしとる、今あれが流行か知らん、それが私が好かんのです、もし私が娘をやれと言うなら、そげなもんにはやろうごとなかと、私が見ただけでそう思うから、〇〇さん散髪ばしてこればキチットして行かんのと私が言いました、おかげで一遍で向こうも気に入りゃこっちも気に入りました。
帰りにはもうその福岡のデパートまで、もう帰りには、その一寸二人で外へ出てから、デパートに行ってからチヤンとその約束の指輪まで、買うと言う位に早く決まったこれは言うならそう言う、ならヘアースタイルならヘアースタイルがです、奇麗になったからおかげ頂いとるとじゃない、やはり私が信じておる事をその人が実行したから、おかげ頂いたと私は思うとる。
以来その人は髪を伸ばしませんでした、まあ形のことじゃないけれどもこれは、神様を信じておる神様から信じられておる、と思うから私が好かん事は神様も好きなさらんと思うです、そう信じておるのです、そこでここではやっぱり私タイプにならにゃいかん、私の心を心として行く行き方にならなければいけないと、言う事になります。
勿論心の状態も同じ事、形も心も同じ事、それを例えてこの御教えをもってすると、信心せよ、信心とは我が心が神に向かうと言うことである。
信心せよ信心とは親先生の心に、向かって進むと言う事になるのです、だからはっきり私が言葉に出して、私はそう言う事が一番好かんと言うなら、そんならすぐ改めようと言う気にならにゃいけんです、これは私は神と交流していればですよ、だから皆さんはそれを信じて下さる、親先生と神様と通ってござると皆様が信じられるならばです、だから私の行き方を本気で研究し私の心を、愈々のぞかして貰いそしてそれに見ならわして貰うと、神ならわして貰うと言う事が言わば、信を受ける事になると思うです、それをそのまま生き神様の心として行くと言う事にもなるのです。
今日は信なければおかげはなしと仰られる、大変高度な意味に於いての信、言うなら神様に信じられると言う、そして信じられておる、信じ信じられておると言う、信心を聞いて頂きました。 どうぞ。